昭和52年04月08日 朝の御理解
御理解 第71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日傭取りは出て来るわけにゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
ここへ参って信心のけいこをしておけ。ということは、み教えをまぁ頂く「 」まぁ要点を要点をあの皆さん書いて帰られる。まぁ言わばこれは、素晴らしいけいこだと思うね。聞いても、今日のご理解はどんなご理解だったかなと。やはり忘れるようなことが多いんです。それを要点だけでも紙に書いて、でそれをノートしておくということ。本当にもう素晴らしい信心の言わばけいこのこれは合楽での、特別な一つの傾向だと思うですね。けいこ。そういう一つの働き。
誰が控えておけとも戻しておけとも言わないのに、いつのまにか合楽の方達は、それが、ほとんどの方が出来ておられる。本当に信心の勉強に通っておるなぁ。そんな感じです。それをなら、皆さんが人に伝えて行くときでも、または自分が色々思いわずらうときでもそれを開かせて頂くと。「はぁあのときにはあいうみ教えを頂いておった」と言うように。またはそれは家の宝ともなって、めいめいの家庭に残ることになる。信心の言わばけいこの言うならば、結集のようなものだから。
同時に私は信心のけいこというのは、「ここへは信心のけいこに来るところ」昨日、奥城で、これもはっきりお言葉で頂いたことですけれども。ご理解の中にある、「桜の花の信心より梅の花の信心をせよ」というお知らせを頂きました。信心が甘い次にはあの、昔はあれ、トラまきと言よりましたがね。生菓子が。トラまきという生菓子。ようかんのこうこのトラの肌のような、あれでこぉまいてそれをこう切ったもの。トラまきということ。またトラということは、私ということでしょうし。
まぁその内容が、言うならば甘い。その内容を私の信心内容というても良いだろうし。ここで信心の稽古をしているみなさんと言うてもいいんだ。随分信心の稽古が出来て、色々巧者になって、合楽理念も一通りはマスタさせてもろうて、というようにです。けれどもそれだけでよいということではない。私はこの梅の花の信心をせよとおしゃるのは、辛抱力をつくれということだというふうに感じました。
色々ありましょうね、意味は非常に深いんですけれども、私昨日奥城で直感したことは、そのことを頂いて、合楽の人達は辛抱力がない。辛抱力をつくれ。ですから皆さん、こうやって朝参りでもなさるということは、信心の稽古に通ってくるということを、ならこうやって教えを頂いて、それをノートして帰る。それも信心の言うなら勉強である、けいこである。と同時にこうやってお参りをさせて頂くところに、なら日参と言う様なことになるとね。
色々色んな意味でです、万難を拝しなければお参りは続いておられない。「はあ今日は少し眠たいけれども」と思うときでも、ならそこを、まぁ頑張らせて頂くということが、「はあお参りしてよかった」ということだけではなくて、辛抱力がついてきてね。もうそれが当たり前のことのように段々身に付いてくる。そして信心のけいこというのはそういうことだよね。教えを行ずる。そして今まで分からなかったことを分からせてもらう。信心の奥雅奥雅へと言うならば、教えに『 (?) 』をして。
昨日私あのご本部で、お祭の始まる前でした。学院長から進展の手紙がきた。そしてすぐ上に表書きに、すぐ開封してくださいと書いてある。これは大変なことだなと思って、開かせて頂きましたら。今度合楽から行った学院生のまぁ、とくに態度のことやらが、話があったんだそうです。それでもう学監は、どういうもんかと知らんですけど。なんかこぉなんか、つっかかるような感じがするですね。
しかも、合楽理念とはどいうことですか。と、昨日電話をかけてこられるような方なんです。ところが学院長という方は、ここにいっぺん、青年教師会かなんかのときに、一晩泊まりで、お話にみえたことがある。私も親しくまぁお話をするし、朝の御祈念にも出てきて、朝のご理解を頂かれて、合楽で説かれるのはもう本当にそのなんというかね、いわゆる、まぁある意味では素晴らしいと。まぁ自分が感じられたところでしたけれども。そんなに言うておられますが。
なんか合楽にはそれ以来非常にこぉ、好意的なそれで私が足が弱くて仲々学院までに行かれませんから。その手紙を読みましてから、すぐ若先生が行ってくれました。で先生方待ち受けておられて色々話があって、とにかく合楽の生き方は間違っているんだというようなですね。例えば、例をいわれるのが、泉尾とかまたは、四国のふたいばたんの今大変ごヒレイの立っている教会ですけど。あたりの修行生は、3年も5年も教会修行をしてからしか学院にはこん。
それが合楽の場合はもう、2ヶ月か3ヶ月間の教会修行ですぐ学院にやる。それで若先生が「はあ本当にそりゃそうですもんね」と言うて。その言われることに、まあ言ったら、もうその学監がもうとって押さえて言う、そういうことが分かっておってどうしてそういうことをするか。ところが私は学院というところは程度の低いところだと思っておるからです。ただ形だけのことをだいたい覚えてくれば良いと思っているからです。信心修行は、もう教会でなければでけん。
言わば私の信心を頂かなければ、出来ることじゃないと思っているから。例えば二か月でも、三か月でもいわゆる、お道の教師にでもなろうと言うなら、一心発起した修行生は、もうその年に私は全部出すわけなんです。というてまぁ、学監とだいたい若先生はだから「そうですね、そうですね」と言うて、その聞いたと言う。そしたらその学院長が横から、「とにかくね、合楽の先生、お宅の親先生の場合は、とにかく深いからね」と言われたそうです。
だから私が説明するなら、今申しましたように、学院というところは、例えば教師としての宗教一般とでも申しましょうか。まぁ教師としての教養とでも言おうか。といったようなことを言うならばプロになるための形式的なものを覚えてくるところだから、高校卒業してからすぐでもいいんだと私は思うんですね。そしてそこで信心のなんたるかということを例えば、なら合楽で言うならなら合楽の教会で感じて。
例えばなら、今度早川さんのいうの場合なんかは、ある意味で信心も何も分からんのです。ある意味でここに逃げ込んできておるとです。どうにも出来ない問題があって、で逃げ込んできて、言わば言うなら、ここで居候的なおかげを頂いておった。修行とかというもんじゃなかった。で私はそれをなんとも、一言だって言うたことはありません。けれども段々こぉ信心にもまれて朝の御祈念にも出てくるようになって、お話を頂くようになったら、こりゃ、信心とは大変なことだぞと。
例え自分がどういう問題を引っさげておろうがです。だから今度は改正名前、名前を変え早川さんから、吉田の性に変わって、もう何もかにもかなぐり捨てて、元の言うならば、吉田に変わって、今度学院行きを決心したんです。それがとくに早川さんなんか、何ヶ月しか修行しておらんとに、その修行にご、ご本部に学院に入学させていったようなことはもってのほかだ。まぁそういう話し合いがあって、そういうことを私にまぁ注意をされよということだったんでしょう。
ところが私はそれの方が本当だと思っているわけなんですね。ここでみっちり信心のけいこをさせてもろうて、そしてお道の教師にでもなろうというのも中にあります。うちの場合なんかはそうです。いよいよあれを考えこれを考えして、これは自分は何をしても言うならつまらんということは自分には大きな白羽の矢が立っているな。これはお道の教師にでも神様から願われているなあとそう実感するところに、なら僕は今年学院に行きます。ならこれは秋山君の場合であったり。
中村君の場合であっても同じような事が言えれるです。だからそれをあの私は言うならば、日田の堀尾先生のお言葉じゃないけれども。神人を求めたもう。その求めたもう今年きりである。私はそれを実感する。求めた蒙古とその頻りであるからこそです、本気でお道の教師でもならせて貰おうかという気になったら、そのまま私は学院に出ても良い。学院と言う所は言うなら、学校なんです。だから勉強して来る所なんだ。
信心修行は結局、自分の教会で実際問題をふんまえての修行でなけりゃ、本当じゃないと私は思うから。だから私のそういう思いを話せば、分かるだろうけれども。学院長はそれを知っておられるという感じでしたね。その一言の中から。合楽がどういうわけでならしかも毎日、毎年毎年5名6名の修行生が参りますから。まぁみんなやっぱり興味の目を持って見てるんです。
今度もう教会から学院修行に行きますのは、まぁ言うならば日本一でしょう。6名というところは、どこもありません。どうしてなら、そういう若いその信心やらそういう人達が合楽で育って行くかと言う事にもです、やはり関心を持っておられるだろうけれども。そういう今言う様に、合楽は教会修行もさせずに、学院にやると言う事の事からだけでいいますと、成程学監が言われる通りですと。
けれどもその言葉ではないね。あんたの所の親先生はもう深いからねと。と言う時には、そういうものをひっくるめて、そんな事じゃないんだよ学院、学院に行くのはと。例えば横からまぁ横やりを、入れるように言われた。それではならもういっぺん検討してみろと言う事になったそうですね。こちらは例えば学院に入れないと言うならば、入れない所で、又あのそれをおかげとして頂いていくのですから。どうでもよい。
そう言う様にです、例えばなら合楽で皆さんが信心の稽古をさせて頂いておる事が、ならどういうなら深い言うならばみ教えの深遠さと言った様なものに、日々触れながら信心の稽古をさせて頂く。そして言うなら日々信心辛抱力を作る為のなら、朝の御祈念なら御祈念の参拝というのは、辛抱力を作る為にはとても素晴らしい事だと。
仲々続きませんです。途中で言うならば自分で割り切るです。もう一通りは分かったと言った様な、そげな事じゃない。信心が分かれば分かるほどそれは、もっともっと目のつまった信心になっていかなければ、おられんのがお道の信心です。自分に力が付いて行きよる。はぁこれはご神徳というものであろうかと、言う様に分かれば分かるほど、信心がね、言うならば力もついてくる、又は教えの深遠さも深いし、御教えも分かり、また頂きこなせれるようになる。
そこでですね、辛抱力をつくるということがですね、今度は本当な意味おいての、言うならばおかげに直結する所の稽古。昨日ある方の、お届けをさせてもらっておりましたら、その方がスコップを持って、土をすくっている。ところが普通こんなふうでしょうねやる。あの炭坑節を踊る、あんなふうにスコップは手にもつもんでしょうが。それをね反対にこげなふうに握っているんです、スコップばね。
左の手を上の方において、右の手をここのところにこういうふうに、こげなふうに握っておる。そしてからこげなふうで、そのすくいよるけんで、土が少し上の方だけしか救われないというところを頂いたんです。はあ本当に惜しかねこの人は。もうこういうおかげが頂ける前に、ただ握り替えさえすればスコップ、救われるわけですね。救う事が出来るのですね、私はご祈念をしながらそう思った。いわゆるね右と左を握り変えさえすればいいわけなんです。
それがどう言う事かというと、なら皆さんが日々信心の稽古をさせて頂いて、信心のなんたるかを分からせてもろうて、そして自分自身の内容という、「はあ自分はこげな辛抱力のない事じゃおかげ頂かんぞ」とか。「はあ自分はここを改めんとおかげを頂く事は分かっているけれどもと」けれどもというだけ。ちょっと握り替えればいい。まぁそれを改まるというわけなんだけれどね。簡単に行くまいけれどもです。これは昔あの満州の体大連に教会に奉天か。奉天かね。松山という大変お徳の高い先生がおられた。
そこの総代をしておられる、ある大変熱心な信心を一家中でなさる。けれどもそのなにをしてもうまい事はいかん。だから先生はほとほと、その分かられなくなった。これほどに一家がをあげて、勢を揃えて熱心な信心をするのに、どうしておかげにならんだろうかと。あるときのご本部参拝のときに、まだ3代金光様が御座世の頃ですから。3代金光様にお伺いをされた。
私の信徒総代で○○という氏子が、本当に一家をあげて信心させてもろうて、熱心に信心しますけれども。何をしても、都合よくいきませんというて、そのお伺いをされたら金光様がおしゃったのが。「こうすればおかげになると分かりながら、こうせんからおかげになりません」とおしゃった。信心が高尚になって、色々なことが分かって、私の方一家は、ここはいっちょ改まらにゃならん。私の方の一家は。
いや私自身はこれをいっちょう改まらなければおかげを頂かれんと言う事が分かっておりながらね、こうすればおかげになると分かりながらこうせんからおかげになりません。言うなら、スコップの持ち方がこうやって反対持っておられる。だからちょっと握り替えるだけでいいんだ。もう鶴の一声。その事を帰っ、その信者に言われたらもう親先生もうその通りでございます。というてその鶴の一声で一家が改まって、それこそ瞬く間に大変なごヒレイを頂いておかげを受けられたという話がございますね。
お互い、九分九厘の所まで行っておっても、それこそ、九分九厘と言う所まで行っておってもね。もう一つそれに添わなければ、100と言う事にはならんのです。信心の私はけいこの一番大事な所は、そこだと思うね。だから信心のけいこに来ると言う事はね。詳しく分からせて頂くだけじゃなくて、分かった事が行じられる。そのために辛抱力が作らなければいけない。
昨日福岡の高橋さんの夫婦でああしてお参りしておりました。高橋さんはあんな、なんですかね、中々頭の頭脳の人ですから。なんかあんまり触れきりませんでした。あれだけ熱心な信心をするけれども、お知らせを頂きませんあんまり。ところがもう滅多には参ってきません。家内がもう色々お夢を大変克明に頂きます。それからご心眼を頂きます。今度ご本部でももう、もう何回も大変大事なことを頂いております。その中にです、ずっとこぉ、花園とも、公園とも分からないようなところにそのトラがおる。
ほぉあんな大きなとらがまぁ丁度そこのトラ、そのまぁ花園で遊んでいたようなかんじ。それがよくよく頂きよったらああこれはライオンじゃったというそのお知らせを頂いたと言うのです。これは昨日のご祭典中にでした、どういうことだと思うですか。昨夜そのことのお届けがありましたから申しましたが。私がこの10年祭の記念祭の記念事業に色々言いおったけれども、土地を購入をされて、広々とした土地ができます。
昔、昔という2年前くらいでしかね。正義先生がこのことに取り組んで、もう本当に一生懸命いろいろな、それこそ、万難を排してそのことの成就にかかっております。そしてどうでもここを、公園化すると言った様な意味のことを言う。そのときには私もピントこなかったんです。ところがこの御用をもういろんなものを建物を建てるとかなんじゃなくて、奥城を建立しようという気持ちにならせて頂いたんですね。合楽の言うならば奥城。ですからもうどれだけ広がってもいい。そしてそれこそ月折々の花が。
ですからもうどれだけでも広がってもいい。そしてそれこそ月折々の花が咲きみだれる。そこにお互い奥城が建立される。もう本当にあの、奥城と言ったら、しめっぽいような感じがするんですけど、そんなもんじゃない。「はぁ極楽と言う所はこう言う所であろうかと」言う様な一つ感じに、もういくら金をかけてでも良いから、その事を一つあの思い立たせて頂いて神様にお願いをしている。
そのことも頂いておられるね。言うならば、合楽は世界の桃源郷。桃源郷ね。桃の源の郷と。合楽は世界の桃源郷だと神様が言うて下さる程しのです、もう桃源郷とはこういう所であろうか。とにかく魂の言うなら憩いの場。魂の言わばオアシスの様な所。ここの奥城を拝ませて貰いよったら、これは私だってもいつ、これはこげん所に奉られるならば、いつお国替えしたっちゃよかぞと言う位な、所謂死生の安心でも出来る位なね、まぁ立派なものにしたいな、と言う様な願いは私はもっているわけなんですね。
言うならばあの虎がそしてライオンに変わったという、虎ということはまぁ私ということでしょう。それけん皆さんから言うならば、ライオンと言う事は親と言う事でいつも頂きますがね。親と言う事でしょう。言うならライオンならライオン、トラならトラがそこでまぁ言うならば戯れ遊んでいる。そういう言うならば計画が言うなら出来て、着々とまぁ進められようとしているわけです。それに信者のみんながその気にまだなっていないということを頂いておるんです。
「はぁ合楽ではそういう大変な大きな大事業が始まるなら、私達もそれに参画させてもらおう」と。そして私共のなら魂の憩いの場としてのそういうね、合楽の桃源郷と言われるようないう、一つそれを形に現す場というものが出来るなら私達もそれを一つの祈りにしようね。先ずは信者一同の者がそういう言うなら切実な祈りをまずは、持たなければいけないということをその次ぎのご心眼で頂いておられましたね。
言うならば、信心のけいこに通ってくるならばです、今合楽教会ではどういう働きがあっておるか。その働きの中に自分もまた働き者として入ってね、そしてそのことを信心のけいこの対象としてです、それに合流する御用でも出来るようなけいこが実際に出きらなければ、私は信心のけいことは言えないと思うのです。信心の稽古。ここには信心の稽古に来る所、毎日夜参り朝参りをする。それだけでも辛抱力をつくる稽古。ここで言うなら、日々御理解を頂かせてもろうて、それを言うならノートしてかえる。
これも素晴らしい信心の稽古。その稽古してかえった事が実際問題に直面した時にですね。それをいかに信心で頂くかという実際の問題に取り組ませて頂くということです。お話を頂いて、「はぁこうでなからなにゃでけん、ああでなければいけない」肝心かなめのところはここなんです。私はここを改まらなければおかげは頂かれんと段々はっきり分かってくるのですね。それにならそのスコップをにぎりかえさえすればよいところまでいっておるのに、その中々改まりができない。
ちょっと右を左にするだけ、なんだけれどもね。だから神様ももどかしい思いをなさるだろう。ここまで信心を進めて、あとの一つが出来んとは残念なことだ。その残念なとこと神様が思いなさるところを、私共は残念だと思ってね、そうスキット改めていくという精進。それが、私は稽古の結果が、そういうことになって来なければならないと思います。ここには信心のけいこに通うて来るところだ。何をけいこしておりますか。こういうけいこをしておる。
ならその稽古がなら自分の血肉にならなければ、おかげにつながらなければね、力にも徳にもつながらなければ言うならばけいこをしておるというだけでは役にたたん。どんなに私の娘達がみんなお茶のけいこをいたしております。でならそれこそ見事な手前が出来るようになり、一通りのことを覚えてもですね、その立ち振るまい一つでもです、お茶の心でせにゃ、せねばお茶習うた値打ちはあるけれどもね。
お茶のけいこでなら、こののだての例え席でもです、こうせにゃならんと分かりながら、もうそれこそお茶の作法はどこへやら、ろくそな言うならば生活のようなそういう状態を見るときに、もう何ためにお茶の稽古をしておるかと言いたいね。お茶のけいこがどれだけ出来ても、それが身に付かなければ駄目です。私の三番目の幹三郎なんかは、お茶のけいこをするようになりましてから、非常に行儀よくなりました。
もうふすまの音、あの私の部屋に入ってくるときでも、ちゃんとそのお茶での稽古で習うた通りのことだろうと私は分かりませんけれども。と言う様な中々いいもんですね。お茶のけいこが身についていきよるんです。ところが、肝心かなめの娘達は反対ですね。だからそげなことじゃ、お茶の稽古は何にもならんじゃないかというようにです、いかに、信心のけいこで高尚なことが分かとってもです。
それが身について行の上に現されなかったら、なんのための信心のけいこかということになるのですね。今日皆さんが信心のここに稽古にくるところというのはね、おかげはわが内で受けよということはね、ご利益を受けようということじゃなくて、おかげはなら信心のけいこはわが内で実証させてもらうんだよ。そういうおかげがわが内で受けよというふうに今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。